家族、ころころ。

〜転がって、丸まって、そうしてゆっくり生きていく〜

店内に並ぶおもちゃ欲しさに駄々をこねる子供のようで。

こんにちは、きーです。
私は、基本、コンタクトレンズなのですが、本日メガネを新調しました!
目を休めるのにいいかなぁと思ったのと、持っているメガネが4年前に作ったやつなのでさすがに新調。
流行りの丸メガネを購入したのですが、店員さんに「木こりみたいですね」と言われました。(どないやねん)
店員さん、木こりを見たことあるのかなぁ〜。

 

 

前回は、「お父さんと会わなくなったきっかけ」について書きました。少しだけお父さんをディスらせていただいています。

keeyhtn.hatenablog.com

 

今回は、私の経験談ではなく、後日、母から聞いた昔の話について書いていきます。「お父さんが、娘に会いたいと言いだした経緯」についてです。

 

 

それでは、お話させていただきます。

  

季節は知らないが、天気のいい昼下がりにその瞬間は訪れた。

 活気溢れる商連街を歩く、女子小学生の集団のうちの1人。

身長で判断するに、きっと年齢は小学3,4年生ぐらいだろう。

 

「あの子は絶対に、娘だ。」

 

友達と楽しそうに笑っている素朴な私を見たお父さんは、一目で自分の娘だと確信したらしい。

 

「娘がこんな近くに住んでいたなんて。こんな偶然に出会えるなんて。」

 

すぐさま駆け寄り、不審がられてしまうことを承知で「おじさんは、君のお父さんなんだ。」と声をかける、なんて野蛮なマネをしなかったのは、祖母の住む家も母の連絡先も知っていたからだろう。

 これを奇跡と呼ばなくてなんと呼ぶんだろう、あんなにもすくすくと育って、あの子は私の娘に違いない。会いたい。今すぐにでも会いたい。

帰路に着く頃には、娘に会いたいという気持ちと、どうすれば会えるのかということしか考えられなかったらしい。

前触れもなく舞い込んできた懐かしさと、じわじわと蘇る父親としての自覚は、そう簡単には消えなかったのだと思う。

とにかく、娘に会いたい一心で、お父さんは母に連絡をした。

 

 

「会わせたくない。また何らかのわがままであの子を傷つけるに決まっている。」

 

連絡がきて、真っ先に浮かんだことは、未来の娘への心配だった。

一度こうしたい、と思うと何が何でも実行しないと気が済まない元旦那と離婚してから約8年。きっと内面は変わっていないのだろうと諦めるにしても、少しはマシになったのか...?と大人な対応に期待するにしても、あまりにも時期が早すぎた。

 

血の繋がった父親の存在を伝えるということは、目の前にいる父親は血が繋がっていないと伝える、ということ。

血のつながりなんて関係ない、と思っていても、それがしっかり伝わるとは限らない。

離婚についても、兄がいることについても話さないといけない。

私が高校に進学したぐらいに、これらのことを話そうと思っていた母にとっては、あまりにも唐突だった。

 

私の娘だから、大丈夫。愛情をかけて、今の旦那と一緒に育ててきたんだから、と思う一方で、10歳の娘が理解できるような柔らかい言葉で、事実と思いを伝えられるだろうか、と不安だった。

あと6年待ってほしい、なんて言葉はあの人には伝わらない。きっとこれから、1秒でも早く会わせろと言わんばかりに騒ぐのだろうと思うと、気分が滅入る。

 

案の定、話し合いをしても平行線が続くばかりで、何度も家庭裁判所に通った。

 

怒る気持ちをぐっと堪え、婚姻中、元旦那にいかに振り回されたのか、現在の生活を保つことこそが娘にとって大事なのではないか、と淡々と家庭裁判所調査官に説明する母。

「でも、彼(お父さん)は、上を向き目頭を抑えて、今まで娘を忘れたことはない、娘に会いたいと訴えていたんですよ。」という返事を聞き、はあ(゜Д゜)?? と思ったらしい。

 

 「どの口が言うとんねんと思ったね!こんな風に目頭おさえちゃって!こんな風に!」と話す母は、お父さんの真似をしたという当時の家庭裁判所調査官のマネをしながら、少しバカにしていた。

「ママも涙ながらに訴えた方が良かったのかしら?冷静さを保っていないと思われるんじゃないかと思って、強がっちゃったの!(笑)」という母の言葉は、もしかしたら家庭裁判所にお世話になったことある人あるあるなのかもしれない、と思った。人生において、演技力は結構な場面で必要なのでは、と。

 

「早く会いたい。」と「もう少し待ってほしい。」の間で揺れた家庭裁判所調査官は、自分の感情が揺さぶられた方の気持ちを優先したらしい。

 

結局、「このまま話が平行線だと、娘さんにも家庭裁判所にきていただいて、意見を聞くことになります。」と言われ、母が歩み寄る結果となった。私が家庭裁判所に行くことになったら、元も子もないやん。 

 

このような経緯があって、私はお父さんと再会することになった。

後日談を聞くと、本当に、お父さんは昔から変わらずわがままな男の人って感じだったのかな、と思う。 会いたくなかった、なんて思ってないから別にいいけど、それにしても、君はわがままだなぁ、と。

 

そして、再会後、少ししてまさかの(ほぼ)絶縁状態に。

そりゃあ、電話口で母がお父さんに怒鳴るのも分かる。私が同じ立場でも、めっちゃ怒る。あんなに労力と時間を使わせておいて、挙げ句の果てに大切なものを傷つけやがって!!ってなりますよね。

 

そんなことを思いながら、私はまるで「おもちゃ」だな、と思った。

商店街で私を見かけてから、どうしても諦められなかったというお父さん。そんなにも熱を上げて何かを欲する時って、大体突発的なとき。

店内のショーケースに、そういえば昔欲しいと思っていたけど手に入らなかったおもちゃを見つけて、今なら買える!と思ったとき。+こんなところで巡り会えるなんて!という運命も感じていらっしゃる。

目の前にあるのに買えないなんてやだやだやだ〜!!これは僕に買ってもらうためにあると言っても過言ではないよ〜!と駄々をこねるような感覚だったのではないかと思った。

こんな近くに住んでいるなら会えるじゃん〜!会〜い〜た〜い〜!みたいな。

 

でも、いざ買ってもらうと、7割ぐらいの人間は、それで満足してしまう。

共感する女性が多いショッピングあるあるの1つに、「もっとも楽しいと思う瞬間は、商品をレジに通すとき。」だと聞いたことがある。

もしかしたら、お父さんもそうだったのかもしれない。いざ会ってみると、人見知りだし、懐かないし、あれ?と思わせてしまったのかもしれない。

そうでなければ、普通、自分から誘った買い物で、30分後にドタキャンなんてしない。

 

仮に、おもちゃが手に入らなかったとしても、次の日には案外ケロッとしているのが子供。あったらその時は嬉しいけど、なくても困らない。急に欲しくなったりするけど、持続することは滅多にない。

 

まるで私は「おもちゃ」だな、と思った。

一応、心ってものを兼ね備えているんだけどなぁ。 

 

結果として、今は(ほぼ)絶縁状態だけど、さすがに私も怒っていない。そういう人なんだなー程度で、何も思わない。お父さんとして、やってほしかったこともないし、私がやりたかったこともない。

これも、私の中でのお父さんは、「お父さん」という認識からは外れているからなのだと思う。

 

次に会うことがあるのならば、お互いの健康を確認したり、「お父さん、あのドタキャンは10歳の娘にはやっちゃダメだよ(笑)」とゆるふわに昔話でもできたらな〜、と思います。

 

今回の話は、以上です。

お父さんのことは全くもって嫌いではないけど、お父さんみたいな人とは一番結婚したくないな〜と思っています(笑)

 

次回は、2番目の父親である「パパ」について書きたいと思います。お父さんとパパの性格は真逆と言っていいほどです。

 

読んでいただき、ありがとうございました^^

 

 

 

お父さんへ、「子どもとの約束」破っては、だめ。

こんにちは、きーです。
先日、初めて「おひとりさまレイトショー」をしました!
中学生の頃から、大人になったらやりたいことリストに入っていたものの、なかなかできず...
帰路の途中、ふと、今日行ったろ!と思い立ち、そのままの勢いで行ってきましたっ!わー!
『君の膵臓を食べたい』。心のデトックス小栗旬さん、最高でした。
宜しければ私の膵臓もどうぞ食べてください、って感じでした。

 

 

前回は、お父さんの再婚家庭について書きました。楽しかった反面、少しずつ息苦しくなってしまった空間。それはきっと、「他人の家」だから。そんな時に、お父さんと喧嘩(?)をしてしまいます。今回は、「お父さんと会わなくなったきっかけ」について書いていきます。

 

それではお話させていただきます。

 

「久しぶりに、買い物をしよう。」

急にお出かけに誘われた、ある日曜日のお昼頃。

 

お父さんの家に行きづらいと思い始めていたため、家よりかはいいと思い、承諾。

母に伝えると、洋服を買ってくれるかもよ!と言われ、少しテンションが上がった。

返信は30分ほど遅れてしまったが、大丈夫だろうと思い、急いで身支度をしていた。

 

けれど、お父さんは私の想像以上に自分勝手だった。

 

「やっぱり時間がないからまた今度でいいかな。」

 

え...?

時間がないの...?

30分で時間が無くなったのかな。

 

母が「可愛い服買ってもらえるといいねー!」と言ってくれていた手前、「父親にドタキャンされた」現実をなかなか受け入れられない。

待って待って、このスピード感あるドタキャンはなんだろう。いきなり誘われて、いきなり断られたぞ?父親による、人生初のドタキャン(される側)。

普段なら、えー!残念ー!行きたかったー!!で済む話ではあるが、この時ばかりは子どもながらに、お父さんの態度が許せなかった。

 

「ママ...お父さんに断られちゃった...。」

 

え!?と驚いた表情から真顔へと変わり、何!?メールを見せて!!と駆け寄る母を見て、涙が溢れた。徐々に込み上げる、「期待した私がバカだった」感。

 

「あのさ!!メールの返信も遅くなかったよね!?自分のわがままで子どもを振り回すのは辞めてって何度も言ってたよね!?!期待させて悲しませるんだったら二度と誘わないで!!泣かせてるんだから!自己中心的な行動で子どもを傷つけるのは辞めて!!」

すぐさまお父さんに電話をかけた母は、お父さんが電話に出たであろう瞬間に大声で怒っていた。

 

母が人にあそこまで怒鳴る姿を見たのは初めてだった。それくらい、怒鳴っていた。

 

謝りたいってと渡されたケータイからは、「なに〜?きーちゃん泣いてるの?泣かないでよ〜?」と子供騙しな猫なで声が聞こえ、言葉を発する気力すら失せた。子どもだからってバカにしないでよ、と思いながらも、言えるほど強くはなく、無言で母に返した。適当にやり過ごされた気がして、悲しみはスーっと引いた。

 

これだから会わせたくなかったのよ、と怒る母の言葉を聞きながら、「あぁ、なんか分かったぞ。」と思った。

 

お父さんって、多分、昔からこういう人なんだ。

自分の気分で相手を振り回して、期待させて、傷つける人。

出来もしない約束を無責任に取り付ける人。

人の気持ちを考えずに、自分が満足だったらそれでいい人。

 

なんか、分かった気がする。

 

お母さんは、ずっとこの人に振り回されながら生きていたんだ。

そりゃあ、離婚するわ。良かった、離婚してくれて。パパと再婚してくれて良かった。

良かったと思う反面、旬くんは大丈夫かな、と思った。奥さんも、キキララも。

この人、結構やばい。

 

この電話以来、お父さんと会うことはなかった。

あれから、年齢が上がるにつれて、たくさんの成長をした。

小学校卒業、中学校入学・卒業、高校入学・卒業、大学入学、そして、成人式。

誕生日も10回迎えた。

だけど、一度として、お祝いの電話がくることもなかった。私もしなかった。

旬くんとは頻繁にあっているけれど、伝言一つすら聞かない。

私にも新しい家族がいるから、祝ってもらえなくてもどうでも良かった。

どうでも良かったけど、じゃああれはなんだったんだ、と思った。

何が目的の再会だったのか、会った意味、無かったんじゃない?

 

そういえば、中学生の時、一度だけ、メールが来た。

「久しぶり!今度、静岡か山梨に別荘を買おうと思っています。どこがいいと思う?」

 

...私は不動産屋さんかな、と思った。

中学生にもなると、私のピュアッピュアな部分は割と消えかけていたわけでして、

「こんにちは。そうですか。今宵は台風がすごいですね。」

といたって冷静な返しもできるようになっていた。

 

それ以降、返信はなかった。

 

そんなわけで、すごーく後味の悪い別れをしてしまいました。元気にしているのかなー。

 

もし、様々な理由で離れ離れになった子どもと再会しようと思っている方が、この記事を読んでくださっているのならば、考えてみてほしいことがあります。

「出来ない約束をしたら、子どもにどんな思いをさせるのか。」ということです。

感情をコントロールできるような大人ですら、何かに期待して、裏切られると傷つく。

子どもならより一層、人の言葉を信じると思うんです。

「一緒に住もう。」も、「また会おう。」も、全部。

勝手に期待して、勝手に傷つくこともある。

離れていた分の思いを共有したい、時間を埋めたいと思っているのなら、

まずは、「信じることができるんだ。」と思える対象になるべきではないかな、と私は思います。はじめの一歩は、信頼関係からではないでしょうか。

私は、一回傷つけられたことで、もういいや、と思ってしまいました。

でも、年齢が低くなればなるほど、察する・諦めることは難しいように思います。

一回裏切られて傷つく、でもまた約束をする、そして破られてまた傷つく。

傷つくと、それまでの楽しかった思い出すら澱んでしまうことだってあります。

理想論だけど、そんな辛い思いをする子どもは存在しないでほしい。

出来ない約束をするくらいなら、約束なんて要らないから、まずは、守れる言葉だけをかけてほしいな、と思います。

子どもの心に寄り添うことを目的とした活動をしている自分にも向けて、これらの文章を残します。

 

今回の話は以上です。

あの後、お父さんは奥さんと離婚をしたそうで、その話も後日書けたらな、と思います。今となっては台風のように来て、去っていった思い出です。

後日、母から「急にお父さんが娘に会わせてほしいと言ってきた経緯」について聞いたので、次回はそのことについて書こうと思います。

 

読んでいただき、ありがとうございました^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絆が薄い人の家庭なんて、血が繋がっていても「他人の家」なわけでして。

こんにちは、きーです。
現在、小学3年生の女の子の家庭教師をしているのですが、その女の子がすっごく可愛いんです。
おてんばだけれど、一生懸命勉強もして、にこにこしながらお菓子を食べて。
ただ、仲良くなりすぎて勉強後の遊びの時間が本格的になっています。
この間は、20分間、一緒にスライム作りをしました。洗濯のりで。図画工作かて。
童心に戻る時間を大切にしようと、バイト後の時間はあえて多めに空けている私です。

 

前回は、私が「初めてお父さんの新しい家族に会った話」を書きました。まさか自分に異母姉妹(二卵性双生児)ができるなんてって感じです。

 

keeyhtn.hatenablog.com

 

あまりにも長くなりそうだったので、今回はこの記事の後編です。

 

それではお話させていただきます。

 

私が、お父さんの再婚家庭と距離を置いた方がいいのではないかと思った理由の一つは、優しく面白い奥さんが、夜になると壮絶な「食いトレ(食べるトレーニング)」を進めてくること(奥さん的には"親切"のはず)だった。しかし、それだけではない。

 

2つ目に、キキララが問題だった。単刀直入に失礼すぎることを書くが、私は4回目の対面あたりから、キキララが苦手になってしまったのだ。理由は、私がお姉さんになりきれなかったから。

キーワードは、「どうぶつの森」。

当時、寝る間も惜しんで時間とエネルギーをつぎ込み、どうぶつの森に没頭していたのだが、キキララと一緒にいるとなかなか思い通りには遊べない。それもそのはず、小さい子が家にはない遊具を見て興味を持つのは当然。私はお姉さんになって、自慢のDSをキキララに貸す義務がある。

ただ、貸して貸しての嵐は全然良いのだが、途中から喧嘩するは泣きわめくはの大嵐でその場は吹き荒れる。双子間の感情のぶつけ合い。私は罪悪感を抱きながら慰める。貸したら貸したで、大事に育てていた村は荒らされ、木は斧でぶった切られ、落ち込む。教えるから一緒にやろう、と言うとイヤイヤ期が出てくる。

DS以外に一人遊びができるものを持っていなかったため、途中からは、双子が起きている間は3人で遊び、お昼寝タイムのみ密かに遊ぶようにしていた。でも、見つかったらたちまちお守役だ。このお守役、10歳の私には荷が重かった。

当時の私は、「ごめんなさい、その日は用事があって...」と断る術を知らない上に、母に行きたくないと伝えるのはやりすぎではないかという遠慮から、お父さんに呼ばれたら行くしかない状況だった。

 

仲良く遊んでいる間は楽しい。でも、なんだか息苦しい時間が増えてきた。家では弟のマルと私はお互いに好きな遊びをしていたからぶつかることはなかったし、ゲームも一緒に楽しく遊べている。なんでこんなに違うんだろう。

 

その理由は簡単で、「他人の家」だからだった。

他人の家だから気も遣うし、他人の子どもだから遠慮もする。

双子のわがままの全てを受け入れられず、時としてイライラする自分を「大人気ない」と思い、早く家に帰ってマルと遊びたいと多々思った。

そんな中で、奥さんが私にどう思っていたのかは知らないが、お父さん は一人、能天気だった。

 

喧嘩して泣く双子と慰める私という女の三角関係を、「きい姉ちゃんと遊んでもらって嬉しいね〜!」と和んでいた時はさすがにイラっときた。

 

私は双子のお守役に呼ばれているの?そして夜はフードファイター

お父さんはこんな姉妹愛みたいなものを見て満足できているの?

あなたの遺伝子を受け継いだ子供をこの家に集合させたいってか??

 

10歳にしてとんでもない性悪だな、と自覚しながらも、薄々自分の父親の性格がわかって来たような気がした。この人、自己中かも。

 

出かけ先に「娘3人のお揃いの服を買いたいな〜」と言われた時、どこの茶番だよ、ペットじゃないんですけど、と心の中の鼻で笑い、「でも、なかなか年齢が離れているからね〜」と愛想笑いをした。

 

このように、私にとってお父さんの再婚家庭は「他人の家」以外の何物でもなくて、お邪魔しているという感覚だった。お父さんですら「親戚のおじさん」のような距離のある認識なのに、その奥さん、小さい子供×2とも同じ時間を過ごすのは、まるでアウェイな感覚だった。決して嫌いではないし、よくしていただいていたのだが、私は上手にその空気感を楽しむ余裕がなかったのだ。

 

ちなみに、高校生だった旬くんは大学受験でとても忙しそうで、話すことはなかった。

 

そんな時、お父さんとのある事件があって以来、現在までの10年間、一度もお父さんとは会っていない。

 

以上が、私がお父さん家族に抱いてしまった(という表現が正しい)気持ちです。当時の私は、自分がなんで家に呼ばれているのか、どんな立場で呼ばれているのかを考えて勝手に苦しくなっていたように思います。いっそのこと、親戚のおじさんと紹介されていた方が考えすぎることもなかったのかもな、と思うほどです。

 

次回は、私が「お父さんと会わなくなってしまった話」について書きたいと思います。少し、暗いお話かもしれません...。

 

読んでいただき、ありがとうございました^^

 

 

 

 

もう一人の父親と再会したら、キュートな異母姉妹(双子)がいた話。

こんにちは、きーです。
私は今年で21歳になるのですが、最近大人っぽくなる研究をしています。
例えば、服装、メイク、ヘアースタイル。
笑い方もこの20年間「ガハハ笑い」をしていたのですが、なんてナンセンスなんだと気付きました。これからは「うふふ笑い」を、時として「えへへ笑い」を心がけます。そんな決意表明でしたー。パチパチ。

 

今回は、「私が初めてお父さんの新しい家族に会った時の話」を書いていきます。私がもう一人のお父さんに出会った時、お父さんは、母と同様に再婚し、新たな家庭を築いていました。

  

それではお話させていただきます。

 

「きーちゃん、今度はお父さんのお家においでよ。旬お兄ちゃんもいるよ。」

 

もちろん来てくれるよね、と言わんばかりのスマイルくんな表情を浮かべるお父さんを見て、嬉しいとも、不快だとも思わなかった。

別にいいけど、行ったところで何をするの?ってか、旬お兄ちゃんなんて一度も読んだことないなぁ、呼ぶつもりもないしなぁ...なんて頭の中で喋りながら、お父さんに対してはただ頷くことだけで返事をした。

 

そして、当日。

母はただ、「楽しんでねー!」と、明るく送り出してくれた。どうやら母は私がお父さんとその家族に会うことに何も思わないらしかった。

お父さんの家族に会うのかぁ、緊張。この緊張は、向こう側の家族に会うんだ、という状況把握をした上での緊張というよりかは、ただ単に人見知りからくる緊張だったように思う。

 

「きーちゃんね!こんにちは〜!」

明るく出迎えてくれたお父さんの新しい奥さん(以下、奥さん)は、背が高くてきっちりした女性だった。

普通に優しそうだし、いい人そう。でも、多分気は強いだろうな。あと、私のママの方がキレイ。

私の周りの人たちだけかもしれないが、親と同世代に見える大人に出会った時、自分のママの方がキレイ、自分のパパの方がスラッとしてる、と比較して親を誇りに思う子どもは女の子によく見る傾向のような気がする。もしくは、私が嫌味なませガキだっただけだろうか。

 

そんなことを思いながらぎこちない愛想で挨拶をする私を、奥さんは快く迎えてくれた。 二階に案内され、階段を上り終えた時。

 

私は3度目の衝撃を受けた。

 

「「ちっさい女の子がいるーーーーーーー!!!!!!」」

 

もはや驚きすぎて、叫びたい言葉は喉に突っかかって、 w(゚ロ゚;w(゚ロ゚)w;゚ロ゚)w という表情のみでしか驚きを表現できなかった。色違いの服を着て、ソファにちょこんと座る女の子×2は、当時4歳くらい、弟のマルよりも小さかった。

 

もう一人の父親がいると思ったら、

恋しかけた親戚のお兄ちゃんは私と血が繋がっていて

おまけに双子の妹もいるんかいなーーーー!!

 

「きーちゃんの妹みたいなものだよ。ほら、きーねえちゃんだよ^^」

 

お父さんはわいわい上がったテンションで言っていたが、生憎、私はその頃小さい子が苦手で、大喜びはしなかった。ただ、小さい双子が目の前にいるのは、なんだか愛らしかった。仮に、双子をキキララ(ララは男の子だけど)とする。とっとこハム太郎で例えるなら、トラハムくんとトラハムちゃん。らき☆すたで例えるなら、かがみとつかさだ。

 

この双子、まず顔がぜんっぜん似てない。びっくりするくらい似てない。二卵性双生児は似ないと知り、「えー、じゃあ入れ替わりとかできないんだね。」と言って、奥さんに笑われたことがある。私の無邪気な発想、プライスレス。

 

 こうして私は、キキララのお姉ちゃん的存在として降臨したわけだが、「あぁ、私たち、別々の家族なんだ」と気づき、距離を置くようになるまでそう遠くはなかった。

理由は大きく2つある。

 

まず1つ目に、めっっっちゃ気を遣う。

接待かよ、というレベルで気を遣う。私は幼少期から人見知りである上に、人の顔色をかなり伺う子どもだった。礼儀正しくするということだけに集中し、奥さんとの会話もそこそこ合わせつつ、双子と遊んでいたわけだが、これが非常に疲れる。誰の家に泊まるよりも疲れる。どないなってんねん。奥さんは私が気を遣っていることに気づいてくれていたため、やたらと話しかけることはなく、ただただ優しくしてくれてはいたが、一つだけ、苦手なところがあった。

 

奥さん、私にたっっっっっくさんの量のご飯を食べさせようとしてくる。

 

これはおそらく優しさだと思う(思いたい)のだが、当時、私はとても細く少食であるのに、夜ご飯になるとどうしても食べきれない量のご飯やらスープやらをいただいていた。残すのは失礼にあたるから、10歳の少女なりのプライドをかけて毎回完食していたのだが、それがものすごく辛かった。焼肉と鍋の日は今でも鮮明に覚えていて、もう大丈夫です、と言う私に構わず、「本当〜?たくさん食べなきゃダメよ?」とじゃんじゃんお皿に足されていくお肉やら野菜。えずきそう(というより多分えずいてた)な姿を隠し、涙目で必死に口に詰めていた記憶がある。

掃除の時間なのに、一人だけ机に向かう昭和の小学生の給食の時間かよ。揚げパンを牛乳で流し込む時かよ。辛くても残さず完食に向けて努力し続けるこの行為を「食いトレ(食べるトレーニング)」と呼ぶことを、高校でアメフト部のマネージャーになってから知った。

 

とはいっても、夜ご飯の時以外の奥さんは明るいし優しいし、お笑いが好きで話しも合うし、素敵な奥さんだった。何故か夜ご飯の時だけはオラついていた。永遠に答えの出ない問題である。

 

あーだこーだ言ってはいるが、きっとこの食いトレ事件がなくても、私は永遠に気を遣い、奥さんと距離が縮まることはなかったように思う。お父さんは、私と奥さんをどんな関係にしたかったのだろうか。親戚の奥さんという認識でよかったのだろうか。よくわからないが、きっと今なら、そんなこと気にせず他愛もなく話せるのにな、と思う。

 

あまりにも思いが強すぎて長くなってしまったため、続きは次回書こうと思います。奥さんも双子も優しくて可愛いけれど、相性というのは少なからず存在しますよね。

 

読んでいただき、ありがとうございました^^

 

後編はこちら!

 

keeyhtn.hatenablog.com

 

 

人見知りな私、不器用なお父さん。2人の架け橋、テーマパーク。

こんにちは、きーです。
先日、母が私に新しい枕を買ってくれました。
割と高反発な長方形の抱き枕、こちらなんとシックな紺色でございます。
この子が部屋の門番に加わってから、より一層眠ることが楽しみでしょうがないです、なんてこったい!

 

今回は、「私と血の繋がった父親と再会し、頻繁に会っていた頃の話」を書いていきます。小学4年生で(もう一人の)お父さんの存在を知り、母も含め3人で会った後、私とお父さんは2週間に1度、多いときは毎週末会っていました。

 

それでは、お話しさせていただきます。

再会を果たした後、お父さんはよく私をお出かけに誘ってくれた。大体のプランは決まっていて、日曜日で1日中お父さんの仕事がお休みの時は、ほぼ確実に「キッザニア」だった。キッザニア東京ららぽーと豊洲内にある、多種多様な職業体験ができるテーマパーク。

当時小学4年生の間では、キッザニアに行ってみたい!と思う子ども達は多く、注目の的であった。初めて行った時は、会ったばかりの親戚のおじさん的ポジションの人と2人という緊張と、これが噂のキッザニアか!という興奮でとても楽しんでいた記憶がある。

しかし、月日が経つにつれ、キッザニア行き過ぎ問題が発生する。

2週間に1回、多い時は毎週末キッザニアに通ってた私は、何回職業体験すればええねん、という気持ちがだんだんと大きくなっていた。実際に行くと楽しいのだが、もう満足しました感が否めない。

「日々の生活と離れた楽しい経験は、たまに経験するからキラキラしているんだ。頻繁に経験すると新鮮さと興奮を失うんだな。」と子どもながらに思った。きっとこの経験があるから、休みのたびにディズニーに行きたいと思うことも、毎日インスタ映えを意識したキラキラ投稿をしたいとも思わないのだろう。お父さん、毎週末キッザニア生活は私には合わなかったみたい...。

 

でも、お父さんにとってのキッザニアはきっと救世主だったように思う。

テーマパークは子どもと多くの会話を必要としない。なぜなら、そこには子どもを喜ばせることができるキャスト、モノがたくさんあるからだ。そこに行けば、行くだけで、子どもは笑顔になれる。

思い返せば確かに、あまり会話をした覚えがない。キッザニア後の夜ご飯での会話は、職業体験の感想ぐらい。ちょっとだけ、学校のこと。もともと私は人見知りな上に、心を開くまでは自分から話せるようなタイプではない。きっと当時の私は、聞かれたことしか話さない子だったのかな、と思う。そんな私も、キッザニアで職業体験中では楽しく笑う。お父さんはそんな私を少し離れた場所から見て、色々と何かを思っていたのかも、と今なら思う。 キッザニアでの思い出は、私の中で鮮明に残っているお父さんとの数少ない思い出の一つだ。

 

一度離れ離れになった親子が、また親子としての仲を持ち直すとき、何が必要なのだろう。

空白を埋めるための時間か、思い出の共有か、会話か、もっと他のことなのか。

 

小学生の娘相手に、思い出の共有はきっと難しい。

離婚した当時、私は2歳。物心がはっきりしていなかったし、共有する思い出すらない。赤ちゃんの頃の話をされても、そうなんだー、くらいにしか思えなかった。

会話をするにしても、身の回りのことぐらい。そのくらいの話は、誰とでもする。

 

正直な話、今でも私はお父さんを「お父さん」として見ることができない。見ることができないというのは、何らかの嫌悪感などから見ようとしているわけではなく、単純に分からないのだ。私にもお父さんにも、別の親・別の子ども・別の家庭がある。再会した日から現在まで、私の心の中でのお父さんの位置付けは、たまに会えば話すおじさんなのだ。

 

血の繋がった親子でも、口数の少ないおとなしい親に育てられれば、会話は多くなくても親子だ。信頼関係が成り立っている親子だって見かける。

単身赴任等でなかなか会えていない親子でも、仲がいい親子はいる。

何の認識が、何の経験が、親子を「親子たり得るもの」となっているのか。

私はいつになったら、何をすれば、お父さんを「お父さん」と思うことができるのだろうか。お父さんと思いたいのだろうか。お父さんと思う必要はあるのだろうか。

 

そんなことを考えるきっかけになったのは、紛れもなく血の繋がったお父さんであり、この経験は後々3人目の父親サブと暮らす時にも考えざるを得ない問いだった。自分なりの答えができるのはもう少し先の話である。

 

今回は、お父さんと私が頻繁にあってた頃の話を書きました。次回は、「私が初めてお父さんの新しい家族に会った時の話」について書こうと思います。私が「親子たり得るもの」が何か、少しわかったような気がした時期です。

読んでいただき、ありがとうございました^^

 

 

 

 

 

 

 

 

血の繋がっている兄とは知らずに、MajiでKoiする5秒前だった話。

こんにちは、きーです。
大学生になってから、テレビドラマを見る機会がめっきりなくなってしまったのですが、最近はカンナさーん!過保護のカホコにはまっております。
この2つのドラマは、女の子・女性が悩む、家族、子育て、仕事(就活)、恋愛、友達などのジャンルが盛り盛り盛りだくさんな内容になっていて、毎回自分と照らし合わせて考えてしまいます。とっても面白いです。
後々私の家族とも関連付けて書いたら楽しだろうなーと、勝手にわくわくもくもくしているところであります。
 
 今回は、私が「物心がついた時から"親戚のお兄さん"だと思っていた人が、自分の血の繋がった兄だった話」を書いていきます。私の兄である旬くんは、高身長塩顔雰囲気イケメンなんです。あくまで、雰囲気イケメンですが。
 
それでは、お話させていただきます。
私は、小さい頃からずっと母方の祖母が大好きでしょうがなかった。祖母には従姉妹も含めて孫が4人いるが、昔も今も、おそらく一番懐いている孫が私なのではないかと思うほど。祖母は、母を生んですぐに、祖父が持病の心臓病で亡くなってしまい、シングルマザーとして叔父と母の2人を育ててきた。叔父と母がそれぞれ結婚して家を出てからは、1人で一軒家に住んでいるため、よく従姉妹と祖母の家に集まったりしていた。
祖母、叔父、叔父の奥さん、1つ上の従姉妹、母、パパ、マル、私。大人数で楽しくわいわいしていたのは今でも微笑ましい思い出である。
しかし、もう一人、謎の青年がいた。
当時、高校生だった、旬くんと呼ばれる青年。スラッとしている高身長塩顔で雰囲気イケメンである。祖母の家に遊びに行くと、よく旬くんがリビングでゲームをしていた。
 
私より8歳も年上の旬くんは、なんだか大人っぽく、かっこいいお兄さんに思えた。ただ、旬くんは家にいる時はいつもゴロゴロとゲームをしていて、私やマルとは全然遊んでくれない上に、祖母や母と世間話はしても、直接私に話しかけることはない。子供が嫌いなのかなぁと思いながらも、手の届かなさもやはり、かっこいいなー、と憧れの的だった。みんなで食卓を囲む時は、静かに旬くんの隣をキープし続けた。
ただ、旬くんは、いつも一人で来ていた。常に一人。どこに住んでいるのか、普段は何をしているのか、兄弟はいるのか、両親が誰なのかも一切知らなかった。なんだか謎に満ちているお兄さん。
 そんな時、もう一人の父親との再会を機に、旬くんが自分の血の繋がった兄であることを知った。(詳細はこちら)

keeyhtn.hatenablog.com

 

「旬くんは実は、血の繋がっているお兄ちゃんなんだよ。あなたも旬もママが産んだのよ。」
母にそう言われた時、衝撃や感動よりも、あっぶなーーーーーーーーーーー!!!!!と思った。結構好きだったんですけど!私今小学4年生だからまだまだお子ちゃまだけど、このこと高校生ぐらいまで知らなかったら、ワンチャン好きになってたんですけどー!!と思った(当時、"ワンチャン=ワンチャンス=ひょっとしたら"という言葉はなかったが、ニュアンスはこんな感じ)。
母は、「私のこともお母さんって呼んでいたし...」と笑っていたが、全く気づいていなかった。思い返せば、ずっと一人できてたし、素性もよくわからなかったし、謎だらけだったし、と不思議な点がわんさか出てくる。当時は、一切気にしたことがなかった。
 
今となっては笑い話のようになっているが、この件については結構シャレにならなかったのではないかと思う。何しろ、高校生の頃の旬くんは、当時流行りに流行ったテレビドラマ「花より団子」の花沢類に似ていたのだ(横顔0.0000005秒くらいサッッッッと見ると)。私視点からすれば、優しくない花沢類のようなものであり、それはそれでまた趣があった。道明寺よりも花沢類大好き人間だった私は、本当に旬くんが憧れの存在であり、好きだったのだ。ちなみに、このブログ内での兄の呼び名が旬くんである理由でもある。
最近の小学生は「小学6年生でファーストキスをしてないのは遅い♡」「登下校中の手つなぎは当たり前♡」といった恋愛スキルを兼ね備えているという風の噂を聞くが、当時の私はそんなアダルトな恋愛事情とは無縁だったため、祖母の家でたまに会えるだけで十分嬉しかった。
しかし、私が高校生になっても、旬くんが"親戚のお兄さん"という位置付けでいたとしたら、流れによっては笑えない。女子高生が年上男性へ抱く憧れが恋愛感情に変わるのなんて、秒の速さだ。旬くんはきっと相変わらずのスルースキルで妹の私を相手になどしないから、下手したら、私が勝手に恋心を抱いて勝手に他の人との恋愛を全切りしていたかもしれない。あっぶなーーーーーーーーーーーー!!!!!
 
このように、妄想を膨らませてしまうわけだが、実際に旬くんが自分の兄であると知った後、憧れは一瞬で飛んでった。「なんだ〜、お兄ちゃんか〜、私お兄ちゃんいてほしかったんだよね〜」という軽い気持ちですぐに落ち着いたのだ。ずっと旬くんと呼んでいたため、お兄ちゃんと呼び直すのも恥ずかしく、今でも旬くん呼びをしている。
また、私が歳を重ね、立派な男顔に成長していくにつれて「あぁ、私旬くんの妹だわ...」と神妙な面持ちになるのである...(現在進行形)。
 
そんな旬くんと私の関係性だが、たまに一緒に夕食を食べたり、祖母の家に行ったりしている。特別仲良くはないが、大学の話や仕事の話をしたりもする。旬くんの恋愛事情を聞いたりもする。私が大学生になってからはよりフランクになったのかなーと思うエピソードもあるが、それはまた別の機会に書きたいなと思う。
 
こうして、私のMajiでKoiする5秒前事件は、未遂で終わることができました。ふう。
ちなみにどうでもいい話ですが、今では旬くんの恋愛にドライすぎる性格の割にちょこちょこモテてらっしゃるところが合わないわー、と思っています。
 
次回は、またお父さんとの話に戻りますが、「お父さんと頻繁に会っていた頃の話」について書きたいと思います。読んでいただき、ありがとうございました^^

もう一人の父親に出会った時、少女は彼のうすら頭にスターを散らばせた。

こんにちは、きーです。
先日、駅まで全力疾走を試みたところ、見事前のめりで転びました。ずさーーーーっと。
予定には間に合ったのですが、柔らかい素材でできた紺のパンツが破けていました、左膝血だらけで恥ずかしかったっ///
怪我をしたらケアリーヴですね。
 
今回は、私が「もう一人の父親」に初めて会った時の話をしようと思います。 10歳の頃、小学4年生です。
もう一人の父親について知った時の話についてはこちら。
 
それではお話させていただきます。
母から、「お父さんに会ってみたい?」と聞かれ、正直のところ、もう一人の父親に強い好奇心はなく、すごく会いたいとも会いたくないとも思わなかった。ただ、お父さんは会いたいって言っているんだけど...と伝えられると、会いたがっている人を拒むのもなんだか気の毒だし、会ってもいいですよ...?というような反応。一応、生きているうちに一度は会ってみましょう、と。
 
そして、当日。
私は母とお父さんと3人で夕方から夕食を食べる約束をした。この時点では、お父さんがどんな生活をしているのかさえ知らない。
元々持っている人見知り具合と、よくわからんけどもう一人の父親と会うという状況に緊張をしながらも、母と待っていた。
すると、前から母と同い年ぐらいの男性が近づいてくる。
超普通の人。10歳の頃の私からみると、かっこいいとは思わないが、同世代の中だったら良い方ではあったのかなーと思った。こんにちは、と優しく微笑む男性をみて、少しホッとした。クセが強くなさそうでよかったー、と。
出会ってはじめに、夜ご飯の時間まで少し時間があるから、と3人でゲームセンターに入った。当時の私はプリント倶楽部、通称プリクラが大好きで、母・弟と出かける度によく撮っていた。
3人で撮っている時、お父さんが後ろから私にゆるくハグをする形で撮ってきた時も、内心びっくりはしたが、不快感を抱くことは特になかった。お、おぉ...ってな感じに。ただ、それは10歳の少女だったからであって、20歳である現在にもし初対面で「お父さん」と名乗る人に、感動のハグではなく、不意打ちに後ろからハグをされたら確実に不快感を覚えるだろうとは思ってしまう。初対面なのに気安くスキンシップしないでくれ、と。つまり、「お父さん」という肩書きは持っているのかもしれないが、私の記憶にない時点で親子間の信頼関係は結ばれていないわけであって、私の中ではあくまでも「初対面の親戚のおじさん」と同等の認識であるのだ。
もし、様々な理由により、年頃の娘さんとの初対面を控えている男性がいらっしゃるのならば、まさかそんなことする人はいないのではないかと思うが、そして私の勝手なお節介ではあるが、ぜひ注意していただければ嬉しい。「初対面での不意打ちの後ろハグは、きっと、おそらく、嫌がられる」ということを。
そんなこんなで、落書きタイムに入ったわけだが、小学4年生の落書きは、センスがない(私の場合)。むやみやたらとハートを書きすぎたりする。
この時もそうだった。
当時、キラキラしたスタンプがお気に入りだった私は、輝くスターのスタンプを天の川のごとくシャラララ〜と散りばめた。何も考えずに、お父さんの頭部に。
「あっ、ちょっと、きーちゃん、それは... 」と後ろで戸惑うお父さんを横目に、母はゲラゲラ笑っていた。なんで笑っているのか分からなかったが、その時私は初めて気付いたのだ、お父さんの前頭骨を覆う皮膚が見えすぎているということに。お父さんは、年齢の割にはうすら頭だったのだ。そのあとの記憶は忘れてしまったが、輝くスターのスタンプを多用したかった私は、大丈夫だよ!と子供の無邪気さを盾に強行突破したような気がする。決して、悪意はないのだ。流石の私もそんなにも大人をナメた子どもではなかったはず。そんなこんなで、初対面のお父さんに花嫁さんのベールのごとくスターを散りばめた私は、夕食に向かった。
お店は、様々なお豆腐を使用した割烹料理屋だったのだが、当時の私は子供舌だったために、お豆腐が苦手で卵豆腐しか食べることができなかった。
「なんでよりによって唯一苦手な豆腐を存分に扱う豆腐専門店にするかな!?」と思いながらも食べた。むしろ豆腐が大好きになった今、連れて行って欲しいくらいだ。
 
そして、悲しいことに、この記憶しかない。何を話したのか、全然覚えていないのだ。
私が2歳の時にお父さんと母は離婚していたこと。
お父さんも再婚をし、新しい家庭を築いていること。
ずっと親戚だと思っていた旬くんが血の繋がったお兄ちゃんだということ。
このような話を「お父さん、今朝パンケーキ食べたんだけどさ〜」と話す時のようなトーンで聞いた気がする。
 
今思い出してみても、本当に切ないことに、うすら頭シャラララ事件と、なぜよりによって豆腐専門店なんだ!と思った記憶しかないのだ。でもきっと、記憶にないということは、良くも悪くも感情の揺さぶりがなかったということだから、穏やかな時間を過ごしたのかな、と思う。
ただ一つ言えることは、たった一回会っただけでは「お父さん」という認識は生まれなかったということである。優しいおじさんと説明した方が近い。
 
こうして、お父さんと私の初対面は幕を閉じた。
この後も、私はお父さんと交流を深めることとなる。
 
次回は、「親戚だと思っていた謎の高身長塩顔雰囲気イケメンが自分のお兄ちゃんだと知った時の話」について書きたいと思います。私は危うく、血の繋がった兄に恋をするところだったのです。読んでいただき、ありがとうございました^^